人の顔を覚えるのが苦手だ。1,2回会った人で、そのとき込み入った話もしてたのに、後日再会したとき、相手が「先日はどうも」なんて声をかけてきてもこっちは覚えていないということが多い。もちろん前回聞いた話の内容も忘れている。「あ、どうも」なんて、素知らぬフリで応対しつつ、内心、相手が何者で前回どんな用件だったのか思い出すというやり方もあるにはあるのだが、最近はもうそんなまどろっこしいことはやらない。「えーと。すいません、どんなご用件でしたっけ?」と単刀直入に訊く。それはバツが悪いことだし、相手も「え?忘れてんの!?」という顔をするのだが、正直に言わずに会話のなかから相手が誰で用件は何かを探るってのは、それを思い出すまでの時間あせりまくるし、どうしても会話が頓珍漢になって、却ってよくない事態を引き起こしそうだと思うからである。
こういうことが起きるのは僕に記憶力がないせいだけど、もう一つの要因として、冒頭に書いたように人の顔を覚えるのが苦手だということがある。それは記憶力がないことと同じようだけど、ちょっと違う。それは識別能力の欠落なのである。「欠落」というのは言い過ぎかもしれないが、少なくともそういう能力が低いということは言える。
カポーティ』は、作家のトルーマン・カポーティが『冷血』を書いたとき彼がどのように取材したのかを映像化したものであり、彼が殺人事件の犯人とどのように心を通わせ、そして、その交流が実は小説の完成の目的のために意図されたものであり、そのことを自覚していた彼の心を苦しめもしたという、そういう映画である(と思う)。
犯人は2人いて、カポーティ接触し情報を得るのはペリー・スミスという名の男なのだが、映画の中でペリーともう一人の犯人ディックが同じ画面に出ていればなんとか二人の区別がつくのだが、ペリーだけ、あるいはディックだけの画面だと、その人物がペリーなのかディックなのか、僕はすぐにはわからなかった。登場人物の話す内容やその場面の状況から判断して、やっとその人物が二人のうちのどちらであるか分るという具合だった。二人とも男だし、歳もあまりかわらないようだし、収監されてからは同じ囚人服を着ているし、共通する部分はある。だけど、見比べたら全然違う顔をしているというのに、別々に見たらどっちがどっちか僕には分らない。
だいたい、外国の映画ってのは、この『カポーティ」に限らず、登場人物の区別に戸惑うことが多い。「外人」という要素が強すぎて、個人の顔の特徴をうまく認識することができないのである、ぼくの場合。


よくここまで取材したな、取材できたな、という感想をもった。被害者の友人知人、犯人とその家族、捜査官とその家族、その他いろんな人がこの小説(この作品は「ノンフィクションノベル」と言われているので、「小説」ではある)に登場する。作家の想像力で描写したと思われる場面もごくわずか含まれてはいるが、基本的には取材に基づいた事実の積み重ねでこの作品は成立している。だから、ある意味、この作品には小説のセオリーがない。典型的な例が、犯人が被害者の家から持ち去ったトランジスタラジオである。小説の中の割と早い場面で、そのラジオは提示される。普通の小説や映画ならこのラジオをきっかけにして犯人が逮捕されるはずだと思うが、この作品ではラジオという決定的な証拠は犯人逮捕に貢献することがない。なんとなく納得がいかない気持ちになるのだが、事実がそうであれば仕方ない。そして、別の要素が突然提示され、犯人はあっけなく逮捕される。小説的には「それってあり?」なのだが、逆に、事実は単純な中にあるのだと納得されもする。