8日NHK「芸術劇場」平田オリザ作『別れの唄』

初めて演劇を観たのは大学の演劇部の公演だった。北村想とか竹内銃一郎とかの作品がよくかかっていた。所詮素人の演劇と言ってしまえばそれまでだが、大学に長くいると何年かに一人、才能溢れる役者を見ることができた。
演劇(や映画)は、演出や脚本がいいだけでは面白くならない。うまい役者がいてこそ面白い演劇ができる。また、逆にいくら役者がよくても下手な演出やつまらない脚本だったら面白い作品にはならない。例えば映画で言えば、黒澤明にとっての三船敏郎フェリーニにはマルチェロ・マストロヤンニ。いい監督といい脚本といい役者が揃ったときに傑作が生まれる。
社会人になったばかりのころ、野田秀樹(夢の遊民社)や鴻上尚史第三舞台)の戯曲を観にいくことがあった。時に早口、そして詩的な言葉、少なくとも日常的に使われることのないフレーズを、日常的に聴くことのない抑揚で発せられる演劇だった。それが「演劇」であり、「演劇」であるからこそ非日常性が求められていた。
たぶん、平田オリザは野田や鴻上の次の世代の演劇人で、うろ覚えだが、平田の戯曲は「静かな演劇」と称されていたと思う。少し気になる作家だったけど、観たのは今回が初めてだ。ほとんどのセリフがフランス語だったので、フランスの劇場で上演されたものかもしれない。
たしかに静かな演劇だった。フランス人の妻を亡くした日本人とその妹、妻の家族などが通夜の場でただ話をするだけの一幕ものの劇だった。戯曲の中の時間は途切れることなく、つまり、「そして1年後」みたいな転換は一切なかった。通夜の席の2時間を切り取り、そのまま2時間の戯曲に仕上げているのである。登場人物の口調は日常我々が話したり聴いたりする口調と変わらず、「演劇的」な要素は極力排除されているようだった。奇妙なことや驚くようなことは特になく、フランス人の妻を持った日本人の夫が通夜の席で言いそうなことを言っているだけの戯曲だった。つまり、「フツウ」であり「リアル」だった。でも、自分でもよく分らないのだけど、その「フツウ」さが退屈だったのかというと、そうでもなかった。すごく面白かったかと訊かれたら「いや、そうでもないけど…」と答えるけれど、そのあとに「でも、なんとなく面白かったよ」と続けてしまいそうな演劇だった。その静かな面白さがどこからくるのか、考えてみたくなるような作品だった。