話すということ

先週の「情熱大陸」を録画で見てて思ったことなので、カテゴリーとしては[TV]でも[ひと]でも[art]でもよいのだが、「情熱大陸」とは直接関係ないことを書こうと思うので[その他]にした。
そんな前置きはいいとして…、どんなジャンルでもいいけど一流の人間の言葉には重みがある。スポーツ選手でも音楽家でも劇作家でも、あるいはもっと実生活に近い建築家でもボランティアでも実業家でも。言葉を発することが仕事ではない人のそれであっても、我々一般人は一流の人間の声を聞き漏らすまいと耳をそばだて、たとえ言葉が途切れ途切れであったとしても、次の単語が発せられるまで辛抱強く待っている。
これが、相手がただの人だとしたらどうだろう。発せられる言葉に重みを感じることもなく、言葉が途切れてしまうと次に言葉が出てくるまでイライラしてしまう。相手が言い終わるより前にこちらの主張をまくし立てるかもしれない。…という強迫観念、つまり、「ただの人」である僕の言葉には重みも意味も面白みもなく、言葉に詰まると聞いてる人をイラつかせないかという怖れを抱くのである。だから僕は、余計なことは言わず、できるだけ早く結論を言い、沈黙の時間を作らないという落ち着きのない会話をしてしまう(ことが多い)。その結果、伝達の手段としての意味しか持ち得ないつまらない会話となってしまうのである。