ラッキーストライク

普段、タバコはマイルセブンスーパーライトを喫んでいるが、仕事で疲れていてなお仕事しないといけないとき、例えば徹夜明けのまま仕事を続けるようなとき、強いタバコが欲しくなる。そんなときはハイライトを吸うのだが、忙しくはあってもそこまで状況が酷くないときはラッキーストライクを吸うこともある。なぜラッキーストライクなのかというとパッケージデザインが好きだからである。
一昨日、ラッキーストライクを買った。いがらっぽい味がする。

 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

ここ何年か観よう観ようと思っていながら観てなかった映画。観るとツラクなるような気がして二の足踏んでいたけど、それはまったくの読み違いで、単なるロック・ミュージカルだった。ま、「単なる」というのは言い過ぎだろうけれど、もっとシリアスでクールな映画だと思い込んでいたので、僕的には期待外れでございました。


ちなみに、映画を観たあとである主要キャストのプロフィールを見たら、「えっ!」と驚かされ、そのあと「あ、なるほど」と納得します。

 オカザイル

ひさしぶりに「めちゃ×2イケてる」を見た(途中からだけど)。めちゃイケメンバーの小芝居的やりとり(わざとらしいケンカとか)は個人的にはちょっとひいてしまうのだが、岡村がエグザイルのライブで踊る企画は面白かった。つーか、踊ることって楽しいんだと伝わってきたし、自分も「一緒に踊りてぇ!」ってホント思ったもんね(踊れねえけど)。

 『蟲師』

蟲師 (1)  アフタヌーンKC (255)

蟲師 (1) アフタヌーンKC (255)

3泊4日で1〜3巻をレンタルしたものの、返却期限までに1巻だけしか読めなかった。時間的にも精神的にも余裕がなかったからだが、根本的な原因はこの作品になにかが足りないからだと思う。小説という別のメディアではあるが怪奇物という共通のジャンルである京極夏彦とか夢枕獏の作品で感じたものを『蟲師』に求めた。でも、なんかもうひとつ、なにかが足りない。

 村上隆

ZEROに村上隆が出演していた。僕はこの人に対してミョーな興味がある。お土産用に村上隆デザインのバッジを買ったこともある。だからといって村上隆の作品が好きかというとそうではない。番組には6800万円也の等身大フィギュアが登場したが、最初に見たとき(実物は見たことがない。雑誌の写真で見ただけ)、「オッ!おもしれぇじゃん」と思った。でも、これに6800万円も出す気にはなれない。無論そんな大金持ってはいないが、仮に僕が資産総額100億円の大富豪だったとしてもこれを買うことはないと思う。今、僕の目の前にこの作品と現金6800万円が並べられ、「どっちか好きな方を取っていいぞ」と言われたら、迷うことなく現金に手を伸ばす。どう考えてもこの作品に6800万もの価値があるようには思えない、というか6800万円もらう喜び以上のものをこのフィギュアは僕に与えてはくれないと思う。たとえばこのフィギュアの展示会があったとしたら、入場料が1000円までだったら行ってみたい。僕にとってはその程度の価値しかない。…だがまてよ、1000円で見たいと思う人が10万人いたとすれば合計で1億円になる。十分元はとれる。そうか!芸術の価値というのは一人の人間にとっての価値ではなく、その作品を見たいと思う人間にとっての価値の総体だと考えれば合点がいくじゃないか。


もしもこのフィギュアが12万5千円で落札されていたとしたら、僕は入場料千円を払って見にいくだろうか?きっと、行かないと思う。「これが6800万円?!」という驚きがあるからこそ興味が湧くのである。つまり僕は純粋にゲージュツを理解することができない俗な男なのである。…でもね、今日のテレビでチラッと見えた村上作品、どれもショボく見えましたよ、僕には。だからこそ、そんなのが高く売り買いされていることに興味があるんです。

 教科書検定意見撤回

沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、検定意見の撤回を求める沖縄県民の強い意見を受け、教科書会社からの訂正申請などの形で、記述が復活する可能性が出てきた。
(2日、朝日新聞

二つの理由で気に入らない。
一つ目。11万人集会に屈して検定意見を撤回するのが許せん。相手が11万だろうが110万だろうが、正しいと思ってやったことなら撤回なんかするな、と思う。己の判断が間違っていたと認めての撤回なら許す、というか当然だが、事が大きくなったからといって撤回するのは筋違いである。
二つ目。撤回することを決めたのなら素直に教科書の記述を訂正させればよいのに、教科書会社からの訂正申請の形をとろうとするのが許せん。「教科書会社からの申請があって、それを認めました」などという、自己責任を避けようとする態度が見苦しい。
ただし、僕自身は、集団自決は軍に強制されたものだと思っているので、教科書がそのように訂正されること自体は支持する。


でも、もうひとつ気になることがある。僕は集団自決の現場に居たわけでなく、その場に居た人の話を聞いたこともない。だけど、自決は軍に強制されたのだと思っている。それは、自分がこれまで読んだ教科書や新聞やテレビから得た知識である。ということは、人の言うこと(書いたこと)を信用しているにすぎないのである。それは、逆に考えれば、集団自決が軍に強制されたものでないという記述を教科書や新聞で読んだりテレビで見たりして育ったとすれば、僕はそれを信じただろうということである。何が真実であるかということを証明することは難しく、何かが真実だと思い込むことは簡単であるということは、考えてみれば恐ろしいことである。